ブギウギ| 笠置シヅ子の生い立ち、ブギの女王誕生、娘エイ子や晩年について

NHK朝ドラ「ブギウギ」の福來スズ子のモデルである笠置シヅ子(かさぎ しづこ)の生い立ち、「東京ブギウギ」誕生、そして晩年まで調べました。

この記事でわかること

  • 笠置シヅ子の生い立ち
  • 松竹楽劇部入部
  • 運命の人との出会い、娘出産
  • 娘エイ子とは?
  • 「東京ブギウギ」誕生
  • 美空ひばりの出現とアメリカツアー
  • 笠置シヅ子の晩年
目次

笠置シヅ子の生い立ち

1914年(大正3年)に香川で生まれた笠置シヅ子は養女として亀井家に引き取られます。

笠置シヅ子(かさぎ しづこ)

  • 本名:亀井 静子(かめい しずこ)
  • 生年月日:1914年(大正3年)8月25日
  • 没年月日:1985年3月30日 70歳没(卵巣癌にて亡くなる)
  • 出身地:香川県大川郡相生村(現在の東かがわ市)
  • 体格は小柄
    身長:150cmくらい
    体重:歌手をやっていた頃38kgくらい

「ブギウギ」での花田鈴子役(笠置シヅ子)
・子役:澤井梨丘
・大人役:趣里

画像:Xより

子役の澤井梨丘と趣里さんは、すごく似てます!

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笠置シヅ子の年表

1914年8月25日0歳香川県で誕生、亀井家の養女となる(亀井静子)
1927年12歳小学校を卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験するが不合格になる
1927年12歳「松竹楽劇部生徒養成所」を受験し合格する
1927年夏12-13歳三笠静子」という芸名になり、
娘役・三笠 静子の芸名で「日本八景踊り」で初舞台デビュー
1933年19歳桃色争議勃発→シヅ子は松竹に残留
1933年19歳「秋のおどり・女鳴神」に出演し、トップスター10に選ばれる
1934年20歳 服部良一作曲「恋のステップ」日本コロムビアからレコードデビュー
1935年21歳三笠静子から「笠置シヅ子」に改名
1938年24歳上京し、松竹楽劇団(SGD)旗揚げ公演「スヰング・タイム」に出演
1939年25歳「ラッパと娘」発表・「弥次喜多大陸道中」で映画デビュー
1940年26歳「センチメンタル・ダイナ」発表
1941年27歳太平洋戦争勃発
松竹楽劇団の解散
1943年6月29歳吉本穎右と出会う→交際する
1947年5月32歳吉本穎右(23歳)が結核で亡くなる
1947年6月1日32歳シヅ子は吉本穎右との子、エイ子(亀井エイ子)を出産
1948年1月33歳服部良一作曲東京ブギウギ日本コロンビアからレコード発売
1950年6月35歳服部良一・笠置シズ子アメリカ横断公演ツアー(4ヶ月間)
1957年43歳歌手の廃業宣言し、女優活動に専念
シズ子を「笠置 シヅ子」と改名
1966年〜1980年52歳〜66歳TBS「家族そろって歌合戦」の審査員としてレギュラー出演
1971年から57歳カネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CM出演
1985年3月30日70歳卵巣癌のため亡くなる

芸名・改名遍歴

1927年(12歳)芸名「三笠静子」となる本名(亀井静子)
1935年(21歳)三笠静子から「笠置シズ子」と改名澄宮崇仁親王が三笠宮家を創立したことから
1957年(43歳)笠置シズ子を「笠置 シヅ子」と改名女優に専念する

※このブログでは、最後の芸名「笠置 シヅ子」で名を統一して記載しております。

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出生・養女となる

笠置 シヅ子は生まれてすぐに養女として亀井家で育てられます。

実の父・母は?

  • 実の父親:三谷陳平
    三谷家は代々製糖会社を営む豪農で、郵便局員だった
  • 実の母親:谷口鳴尾(たにぐち なるお)
    三谷家に和裁を習いながら家事見習いで同居していた
    女中ではなく由緒ある家の出身で、三谷家と親戚筋

実の母親はシヅ子を出産し、養女に出す
母親である谷口鳴尾が、18~19歳のころにシヅ子を妊娠しますが、三谷家に結婚を許さなかったため、鳴尾は実家で出産しました。

出産後、母鳴尾の母乳の出が悪かったため、大阪から出産のため帰省していた亀井ウメに父をもらうことになりました。

この縁でシヅ子は、亀井ウメ(養母)に養女として引き取られました。

養父母について

  • 養父:亀井音吉
    大阪で米屋を営んでいましたが、米騒動などにより亀井家は暴徒の襲撃を逃れるため、一家で自宅店舗から避難を余儀なくさた
    この暴動で米を扱うことに嫌気がさした音吉は小売店を閉店し、近所で売りに出ていた銭湯を購入して営業を開始した
  • 養母:亀井うめ
    芸事が好きで、シヅ子に芸事を習わせた
    胃がんと心臓病を併発寝たきりになっていて、シズ子は自分の給与の大半を実家に仕送りして生活を支えていた
    「死に目に逢いにいくより舞台を守ってた方がよろこんでくれますやろう」とした
    養母うめは、シズ子に「あの子も東京でどうやらモノになったのやろ。わてはそれを土産にしてあの世に行きまっけど」「わてが死んだあと、決して母が2人あるということをいうてくれますな」と言い残して永眠した

シヅ子は自分が養女だと知らされていなかったが、
18歳の時、実父三谷陳平の17回忌の時に自分が養女だと知ることとなります。

弟八郎について

・シズ子は実の弟ではない八郎を非常に可愛がっており、
八郎のためにシズ子は、東京「松竹楽劇団」に移籍する際、大阪「松竹楽劇部」から受け取った退職金970円全額を、八郎が軍から帰ってきたときのために貯金していた
・太平洋開戦直前の12月6日に八郎が戦死し、弟の戦死公報が届き、シズ子は大きな衝撃を受けた
・愛する弟を失って悲嘆に暮れるシズ子に、服部は戦死した弟とシズ子をモデルとした軍歌「大空の弟」を提供し、この「大空の弟」はシズ子が戦時中に歌った数少ない軍歌のうちの一つとなった

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歌劇の世界へ

シヅ子は体が弱かったようですが、芸事が好きな養母(亀井ウメ)は、シヅ子の将来のことを考えて、日本舞踊を習わせていた。

シヅ子は風呂屋で踊ったり歌ったりすることが好きで、近所で評判となっていて、養母ウメはシヅ子に少女劇団の入団を勧めていた。

1927年(昭和2年)12歳:小学校を卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験するが不合格になる

不合格理由:
歌唱力と踊りは申し分なかったが、背が小さいことと極度の痩せ型だったために過酷な宝塚生活に耐えられないのではないかとの学校側の判断により不合格となった。

1927年(昭和2年)12歳:「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校である日本歌劇学校の前身)を受験し、合格する
一期生として入部

「松竹楽劇部生徒養成所」の受験は、ドラマ「ブギウギ」同様に、松竹楽劇部におしかけ、音楽部長に無理矢理入部させてもらったようです。

画像:OSK レビューより(1922年 「松竹楽劇部」として誕生)
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松竹楽劇部入部〜トップへ

松竹楽劇部に入部してすぐに初舞台を踏みます。
このデビューでの役は「滝の水しぶき」だったそうです。

1927年夏:12-13歳
三笠静子」という芸名になり、娘役・三笠 静子の芸名で「日本八景踊り」で初舞台デビュー

松竹楽劇部でのエピソード

  • シヅ子は練習に励みすぎて、他の組のレッスンに潜り込んだりして先生に見つかり叱られていた
  • 先輩や先生の世話をテキパキとこなし、皆から「豆ちゃん」と呼ばれ重宝されていた
  • その要領の良さから欠員が出たときの代役によく指名されていた

シヅ子が入部した翌年(1928年)に松竹楽劇部は、東京、浅草に「東京松竹部」を設立させました。

愛嬌のあるかわいい顔してますよね。
愛されキャラっぽい〜

桃色争議

「東京松竹部」の一期生は水の江瀧子で、「男装の麗人」と呼ばれスターとなります。
その後、水の江瀧子をリーダーとした「桃色争議」というストライキのデモが起こります。
大阪松竹楽劇部では、一番人気のトップスター飛鳥明子を争議団長に据え舞台をサボタージュし、
笠置シヅ子らも参加して立てこもりまで起こします。

水の江瀧子(みずのえたきこ)1915年2月20日〜2009年11月16日(90歳没)

桃色争議とは
1933年(昭和8年)、松竹少女歌劇部(後の松竹歌劇団)・松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)で発生した労働争議(待遇改善を求めるデモ)をいう。
中心人物である水の江瀧子の愛称にちなんだ「ターキー・ストライキ」の異称もある。
最終的に松竹は要求を受け入れ、水の江率いる少女側の勝利に終わったが、リーダー格は処分(謹慎・退団)される。
水の江瀧子は騒動で逮捕されるが即日釈放され、その後謹慎処分となる。

桃色争議の背景(1932年〜1933年)
・当時、サイレント映画からトーキー映画へと時代が移り人員削除が起こる
・松竹芸能少女歌劇部では、一部解雇や全部員の賃金削減を通告される
・当時の音楽部の待遇の悪さ(給料が安い、過酷なスケジュールなど)
そして「待遇改善の嘆願書」を提出し「桃色争議」となる

この「桃色争議」で大阪松竹楽劇部では、飛鳥明子は退団することとなります。

ブギウギで蒼井優が演じる大和礼子役のモデルは、飛鳥明子さんですが、29歳という若さで亡くなります。

蒼井優さん演じる大和礼子役は飛鳥明子さん

  • 名前:飛鳥明子(あすかあきこ)
  • 1907年〜1937年没(29歳)
  • 松竹歌劇部トップスター(初のプリマドンナ)
  • クラシックバレエの名手
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笠置シヅ子、トップスターへ

「桃色争議」でトップスターは辞めることになりましたが、笠置シヅ子は残留組として残り、頭角を現します。

松竹歌劇部は大阪松竹少女歌劇団(OSSK)に改名し、笠置シズ子、アーサー美鈴、柏ハルエを新しいスターとして売り出していきます。

1933年(昭和8年): シズ子19歳
「秋のおどり・女鳴神」に出演し、トップスター10に選ばれる

画像:OSK レビューより(1930年代は戦前のレビュー黄金期)

1930年代は戦前のレビュー黄金期
1934(昭和9)年、大阪松竹楽劇部は大阪松竹少女歌劇団(OSSK)と名称を改め、本拠地を道頓堀の松竹座から千日前の大阪劇場、通称・大劇に移しました。「三千人劇場」とも呼ばれたマンモス劇場の舞台で、OSSKのレビューは一層スペクタクルになり絢爛豪華を極めます。柏ハルエ、アーサァ美鈴といった男役スター、笠置シヅ子の歌うスウィングジャズや、スピーディーなタップダンスが人気を集めました。

OSK レビューより
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レコードデビュー・芸名を改名

シズ子(20歳)は、翌年1934年に服部良一作曲でレコードデビューを果たします。

1934年(昭和9年):
服部良一作曲「恋のステップ」(作詞:高橋掬太郎、作編曲:服部ヘンリー)で日本コロムビアからレコードデビューし大ヒットとなる。
※服部ヘンリー(服部良一)

「恋のステップ」は柏晴江が主演する「カイエ・ダムール」の主題歌としてレコード発売しました。

1935年、澄宮崇仁親王が三笠宮家を創立したことから、「三笠」を名乗るのは恐れ多いと芸名を三笠静子から「笠置シズ子(かさぎ しずこ)」に改名しました。

この当時、服部良一とは直接は会ってはいなかったようです。

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シズ子東京へ、服部良一と出会う

1938(昭和13)年4月21日、笠置シヅ子は特急「つばめ」で上京しました。

1938年4月28日:日比谷の帝国劇場で開幕する松竹楽劇団(SGD)旗揚げ公演「スヰング・タイム」に出演

旗揚げ公演のメンバー
構成・演出:男爵益田太郎冠者の五男益田貞信
振付:山口国敏
音楽部長・正指揮者:紙恭輔

益田貞信はシズ子の初恋の人

服部良一との出会いは?

シズ子と服部が初対面したのは、4月28日の公演オープン前の帝国劇場の稽古場だったそうです。

服部は「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」と期待していていたそうですが、服部の前に現れたシズ子は、目をショボショボさせた小柄な女性で、とても風評通りのスターとは思えず、目が泳いでいた服部に対して、シズ子は臆することなく目の前に来て「笠置シズ子です。よろしゅう頼んまっせ」と話しかけてたそうです。

ブギウギの演出と同じですね!

※1934年「恋のステップ」の作曲も服部良一ですが、当時は直接会っていなかったようですね。

服部良一(はっとり りょういち)
作曲家・編曲家
出身地:大阪府大阪市中央区
生年月日:1907年(明治40年)10月1日生
没年月日:1993年1月30日没 85歳
代表作:
『別れのブルース』『東京ブギウギ』『青い山脈』『銀座カンカン娘』など

服部良一と笠置シヅ子はヒット作を作り続けます。

服部良一とのヒット作
1939年:ラッパと娘
1940年:センチメンタル・ダイナ
1946年:アイレ可愛や
1948年1月(シヅ子33歳):「東京ブギウギ」レコード発売

シズ子と服部の関係は、「人形遣いと人形、浄瑠璃の太夫と三味線のように切っても切れない関係」とシズ子は語っています。2人の関係があまりに深かったので、男女関係にあったのではないかという噂もされたが、シズ子は「あの人はワテの先生やがな、しょーもない。すぐうわさを立てられてしまう」と一蹴しています。

【4曲メドレー】♪ラッパと娘 // ヘイヘイ・ブギ // ジャングル・ブギー // 東京ブギウギ

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シヅ子の初恋の相手は益田貞信

「ブギウギ」では、スズ子は松永大星に恋することとなります。

松永大星役(まつなが たいせい):新納 慎也(にいろ しんや)1975年4月21日生まれ(48歳)

史実でも同じような展開になっていました。

「ブギウギ」松永大星役

  • 益田貞信(ますだ さだのぶ)
  • 祖父:三井財閥・三井物産の創業者の益田孝
  • 父:音楽家・実業家・貴族院議員の益田太郎冠者(ますだ たろうかじゃ)
  • 1911年(明治44年)生まれ(シズ子の2歳上)
  • 東京出身
  • 慶應義塾大学卒業
  • 三井信託銀行勤務後、アメリカに留学しピアノを学ぶ
  • 「松竹楽劇団」の演出家として参加するが、方向性の違いから東宝へ移る

笠置シヅ子との関係・移籍問題

益田が松竹から東宝に移りますが、その際に笠置シヅ子を東宝に移籍させようとします。
笠置シヅ子も母親の治療費が必要だったため金銭的な面と、さらに益田のことが好きだったために移籍にサインします。
しかし、松竹側に移籍がバレてしまい、移籍は無くなることとなります。

シズ子の初恋は?

笠置シヅ子は、益田貞信に恋心を抱いていたようですが、益田はシズ子の才能には惚れ込んでいたようですが、恋愛感情はなかったようで、シズ子の初恋は片思いで終わったようです。

その後、服部良一の支援のもと、シズ子は「笠置シヅ子とその楽団」を立ち上げて松竹から独立します。

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運命の出会い

1943年、笠置シヅ子が29歳の時、運命の人「吉本穎右(よしもとえいすけ)」と出会います。

吉本穎右(よしもとえいすけ)
・吉本興行創業者・吉本せいの息子
・早稲田大学に通う20歳の学生
・笠置シヅ子のファンだった
・シヅ子の9歳年下
・「眉目秀麗な青年」「非常に心の優しい、フェミニスト」とシヅ子が自伝に記述

NHK朝の連続テレビ小説「わろてんか」の設定でもモデルとして描かれている
・主人公の北村てん(葵わかな):吉本せい
・跡取り息子の隼也(成田凌):吉本穎右
・つばき(水上京香):笠置シヅ子
「てんは、隼也とつばきの結婚に反対していた」

吉本穎右についてはこちら

吉本穎右との出会う

1943年6月、穎右はかねてからシヅ子のファンで、シヅ子の楽屋を訪れてシヅ子に名刺を渡します。
その時に、シヅ子は穎右の知的でハンサムな佇まいに一目ぼれしたようです。

その後、穎右もシヅ子を慕うようになり、二人は交際がスタートします。

結婚の反対

吉本穎右の母吉本せいは、後継者としての一人息子の穎右を熱望していて、シヅ子との結婚には断固として反対していた。

吉本穎右の子を身ごもる

シヅ子は吉本穎右の子を身ごもります。すると徐々に結婚に反対していた吉本穎右の母せいも関係を認めてくれるようになります。

妊娠中もシヅ子は舞台に出て踊ったりしていたようで、当時作曲家の服部良一は、ハラハラしながら見守っていたそうです。

吉本穎右の死

シヅ子が出産するわずか数日前に、吉本穎右は、1947年5月に結核のため23歳で亡くなりました。

穎右「男なら穎造、女ならエイ子と名付けよ」という遺言とともに、三万円の入った通帳をシヅ子に遺したました。

シヅ子は穎右と初めて会ったときに穎右からもらった名刺を終生、肌身離さず身に付けていたようです。

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娘・エイ子を出産・シングルマザーとなる

シヅ子は、吉本穎右の死から数日後に女児を出産し、娘に「エイ子」と名付けました。

1948年6月1日:笠置シズ子(32歳)は穎右との娘を出産

シヅ子は、3150グラムの元気な女の子(娘・エイ子)を出産しました。当時ではとても大きな健康優良児だったようです。

穎右(えいすけ)の残したもの
・三万円の入った通帳
・子供の名前の遺言
 男の子なら「穎造(えいぞう)」
 女の子なら「エイ子」

ドラマでは愛助の愛をとって「愛子」と名付けましたね。

穎右亡きあと、吉本家から「子どもを引き取りたい」という申し出もありましたが、シヅ子は一人で育てる決心をしました。

シヅ子は芸能活動を再開し、ワーキングマザーとして働きながら子供を育てて生涯独身を貫きます。

一人娘のエイ子さんは「母にとって男性は父(穎右)だけだったでしょう。吉本穎右一筋の人でしたから」と語っていたようです。

1954年、娘エイ子(亀井エイ子)さんの殺害予告

ブギの女王「笠置シヅ子さんの娘」ということで、娘さんが誘拐され事件があったそうです。

脅迫文には「6万円を置け。さもないと亀井エイ子を殺す」というものでした。
(当時の6万円は現在だと相当な額になるようです)

犯人の要求を応じ、エイ子さんは無事だったようです。犯人はすぐに逮捕されました。

笠置シヅ子のエイ子への教育方針は?

シヅ子はしつけには厳しい人だったようですが、家にいるお手伝いさんは家族以上に大切にしていたそうです。

家にいるお手伝いさん(家政婦)
・ばあや(主にエイ子の世話)とその旦那さん
・お料理を作ってくれるお手伝いさん
・運転手さん

亀井エイ子さんはインタビューで、母・シヅ子は学業に対して一切何も言わなかったようですが、大学進学の時には意見を言われたそうです。

エイ子は、中高一貫校の学校に通っていて、大学に進学しようと思っていたそうですが、母・シヅ子が「大学のある場所は治安が悪いから行かない方がいい」と言われたそうです。

その後、エイ子さんは高校卒業後、渡米されました。

・高校卒業後、アメリカに渡米しオハイオ州グリーブランドの学校に通う
・卒業証書(ディプロマ)を取得後、シカゴの花屋で修行
・1年後帰国し、都内のホテルに入っている花屋で働く

日本への帰国はシヅ子さんから「そろそろ帰ってこい」と言われたそうです。

花屋で働いてからは、シヅ子はエイ子さんに一切お金を渡さず、独りでも生きていけるようにしたようです。

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東京ブギウギ「ブギの女王」から女優晩年へ

戦後の復興の真っ只中、服部良一作曲の「東京ブギウギ」が誕生します。

シヅ子の良き理解者である服部良一が、産後カムバックするシヅ子のために作曲した曲です。

1948年1月(シヅ子33歳):「東京ブギウギ」レコード発売

「東京ブギウギ」は1947年12月公開の映画「春の餐宴」の劇中歌で、戦後を代表する流行歌となりました。

その後、「大阪ブギウギ」「ジャングルブギー」「買い物ブギ」など関連の曲もヒットさせました。

ブギの女王と呼ばれるようになりました。

当時「ブギもの」は、娯楽に飢えた人々を熱狂させました。

歌が上手いだけじゃなく、愛嬌もあって、たしかにノリノリになります!

高額納税者の2位!

シヅ子の年収は200万円で、
1948年度の著名人高額納税者ランキングの2位となります。
※当時の大卒国家公務員の初任給は4,223円
多くても年収は6万円前後

世田谷に豪邸を建てる

1950年、世田谷区弦巻に300坪の土地購入し、翌年の1951年に新居が完成しました。
300坪の土地に40坪の平屋建てで、庭を全て花壇にしたそうです。
近所の人たちは、この美しい庭を「笠置ガーデン」と呼んでいたそうです。

笠置シヅ子 「東京ブギウギ」はこちら↓

笠置シヅ子 「カムカム・ブギ」はこちら↓

NHK紅白歌合戦出場歴:「ブギの女王」としてNHK紅白歌合戦に4回出場

・1952年1月3日(NHK紅白歌合戦第2回):「買物ブギ」
・1953年1月2日(NHK紅白歌合戦第3回):「ホームラン・ブギ」
・1953年12月31日(NHK紅白歌合戦第4回):「東京ブギウギ」
・1953年12月31日(NHK紅白歌合戦第2回):「ヘイヘイ・ブギ」

紅白歌合戦は、最初の頃は大晦日(12月31日)ではなく、年明けの放送だったんですね!

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美空ひばりの出現・アメリカツアー

1949年1月、当時11歳だった美空ひばりは、日劇のレビューラブ・パレードに出演し「東京ブギウギ」のカバーして注目を集めました。

コロンビアレコードは、美空ひばりに「ヘイヘイブギー」を歌わせ売り出そうと考えていましたが、笠置シヅ子側が拒否したため、『河童ブギウギ』レコードデビューしました。
この11歳の少女美空ひばりはまたたく間にスターになります。

https://www.youtube.com/watch?v=bJY7elw4J4Q&ab_channel=%E6%9D%B1%E5%8D%83%E5%92%8C
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アメリカツアー

笠置シヅ子は、1950年6月からアメリカツアーを行うことになりました。

1950年6月から4ヶ月:「服部良一・笠置シズ子アメリカ横断公演ツアー」
ハワイからアメリカ本土まで巡業するツアー
ハワイ・ロサンゼルス、サンフランシスコ、オークランド

シズ子たちは、熱狂的に迎えられ、、興業は大成功を収めた。
また、各地で著名な歌手・俳優と交流しています。
歌手で俳優のビング・クロスビーからは「ぼくの息子が「東京ブギウギ」のファンだ」と握手を求められて、シズ子は感激したそうです。

ジャニー喜多川が裏方を

シズ子のロサンゼルス、公演の手伝い、裏方をしていた人物がジャニー喜多川氏だったようです。
姉のメリー喜多川は服部とシズ子の通訳を務めていたそうで、服部とジャニーは交流を深めていったそうです。

この交流が、後のジャニーズ性被害問題の不運になってしまいました。

アメリカツアー前の「ブギ禁止令」とは?

シズ子一行のアメリカ公演の1ヶ月前の1950年5月に美空ひばりが先にアメリカ公演を行うという情報がシズ子側にもたらせました。

そうなると、美空ひばりが歌った後に、笠置シヅ子が歌うことは興行の価値が下がることになり、美空ひばり側に「ブギ禁止令」を発令します。

「ブギ禁止令」とは?
作曲家・服部良一が日本音楽著作権協会(JASRAC)を通して、美空ひばり側に作曲家・服部良一の曲を演奏することも歌うことも禁じた

当時美空ひばりは、笠置シヅ子のブギが歌えなくなると持ち歌が2-3曲しかなく、アメリカ公演の中止を考えたが、母・加藤喜美枝が基金を設立しアメリカ公演を断行しました。
さらに、日本の法律はアメリカでは適応されないということで、実際はブギを歌ったようです。

美空ひばりとの和解

美空ひばりに対して「ブギ禁止令」と対立してしまいましたが、当時の美空ひばりのマネージャーが服部良一に謝罪し、和解をしているようです。

その後、1951年2月11日NHK歌謡番組で共演したようです。

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歌手廃業宣言〜女優・晩年

1957年シズ子(43歳):ブギの人気が下火となり、シズ子は歌手廃業を宣言する

1955年の笠置シヅ子さん

廃業の理由

「観客を満足させる歌声、踊りが披露できなくなったから」「一人娘の育児を優先」といわれていたが、後年に出演した対談番組で「廃業の理由は『太りかけたから』」だったと告白していました。

引退後は、鼻歌に至るまで一切歌を歌わなかったようです。

女優へ転身

女優として再スタートにあたり
・シズ子は「笠置 シヅ子」と改名して女優活動に専念します。
・「スター・笠置シヅ子」のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、「どうぞ、ギャラを下げて下さい」と出演料ランクの降格を申し出ていたようです。

大阪弁で軽快な演技で人気を博し、テレビドラマだけでなく、バラエティ番組やCMと活躍の幅を広げていきました。

出演作品
・ドラマデビュー作:(1960-1964年)台風家族
・バラエティ番組:(1966年〜1980年)TBSの長寿番組「家族そろって歌合戦」レギュラー審査員(14年間)
・CM(1971年〜):ネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CM

1971年(57歳)からカネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CMのおばさんとして親しまれた。

とても親しみやすそうで人気があったかと思います!

シズ子が亡くなる4-5年前まで、「家族そろって歌合戦」の番組終了まで出演していました。

「日劇」の終焉(1981年)に駆けつけた時の映像では涙を見せながら感謝を語っています。
(東京・有楽町の日劇は48年でピリオドを打ちました)

「日劇」の終焉に駆けつけた際に、
「この舞台から私の一番良い時代を築かせていただいた。ホントにこの舞台、忘れません、生涯」と感慨深く語っています。

1985年3月30日、シヅ子70歳で卵巣癌で亡くなります。

波乱万丈の人生だったと思いますが、「ブギの女王」として君臨し、その後もお茶の間で愛されていたようですね。

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